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原爆投下を裁く 日韓交流 (3)
狭川 原爆福祉会館訪問
95歳の被爆者が証言

晋州城(案内板は博物館の特別展)
=2023/6/8、晋州市
国立晋州博物館で茶菓子をいただく(右から3人目が筆者)
=2023/6/8、晋州市
狭川原爆被害者福祉会館
=2023/6/8、狭川
平和の火
=2023/6/8、狭川
狭川原爆資料館
=2023/6/8、狭川
韓国の被爆者イスヨンさん(95歳)の証言
=2023/6/8、狭川
 6月8日(木)、午前は晋州城と晋州国立博物館の見学です。午後は狭川の韓国原爆被爆者福祉会館訪問です。
 午前 晋州城は宿から10分ほどで、徒歩で行きました。5年前にも見学した所です。
 参照 a-korea18-10-03.htm
 この城は、豊臣秀吉が行った16世末の朝鮮戦争(文禄・慶長の役)で焼かれ、兵士2万人と農民など数万人が殺されました。
 城は何度か再建され、今の姿です。
 博物館は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を中心に展示し、関連する東アジア社会の歴史や、慶尚南道の歴史と文化を総合的に研究・展示・教育しています(案内書より)。
 今回は、特別展「人々のための社会的平等運動」が開催中で、朝鮮半島の衡平社運動(身分差別反対運動)や、3・1独立運動などが取り上げられていました。
 壬辰倭乱時の戦闘の様子や、当時の双方の武器や武具が目を引き、小学生の教育用に、塗り絵などの工夫が目を引きました。
 衡平社運動は、最近注目度が大きくなったジェンダー平等運動の反映と思いました。
 日本からの団体見学を歓迎されたようで、
和風の部屋で茶菓子の接待がありました。木蓮の花の冷茶2杯(白色、紅色)と、蒸しパン風の茶菓子をいただきました(写真上段)。
 午後 韓国原爆被爆者福祉会館訪問は、団体バスで行きました(57分)。位置は、晋州から真北へ45㎞ほでの狭川郡狭川邑(村)です。
 会館は、大韓赤十字社が建てたようで、3階建ての大きな建物で、事務室やホールなどと、住宅部の複合施設でした(写真2段目)。
 その住宅に近親者に身寄りなどのない被爆者が入居され、共同生活をしています。
 到着後、隣接の狭川原爆資料館見学をし、会館で交流会が開かれました。
 資料館は、2017年に開館しました。私は、 2016年にソウルの韓国原爆被害者協会で見た韓国原爆展示館の移設かと思い、聞きますと、別につくったものでした。
 参照 a-korea16-02-22.html
 会館の庭には、原爆の火が灯されていました(写真3段目)。碑文には「~異国で被爆された人々の苦しみを思い、ここに平和の火を灯します。韓国に初めて灯された平和の火~」と刻まれてありました。広島、長崎の原爆の火の火種の由来とは違うようでした。
 交流会では、韓国原爆被害者協會のシムチンテ(沈鎭泰)狭川支部長の歓迎の挨拶などの後、入居者のイスヨンさん(95歳)が、高齢にもかかわらず、広島で被爆した実相を話されました(写真下段)。イスヨンさんは、慶尚北道出身で7歳の時に、母と子の4人が、叔父を頼りに広島へ行きました。17歳の時に、勤務先の郵便局の2階の窓際で被爆し、意識を失いました。気がつくと、ガラスの破片が身体に刺さり出血していました。そして、生き延びた体験をリアルに語りました。その後、帰国しても言葉が通じないうえ、生活苦が続きました。最後に「戦争がないのが1番」と強調されました。
 「広島・長崎で被爆した70万人のうち1割の7万人が韓国人であり」、狭川は「韓国のヒロシマ」といわれる」(2019年狭川で開催の「狭川から核のないアジアに日韓市民フォーラム」声明)のように、狭川は広島からの帰国者の多い地域です。それは、朝鮮半島の都市部より、地方の人たちが多く徴用(強制動員)されたのです。
 なお、朝鮮半島出身者の被爆者の実数については、昨日の市民法廷でも活発な論議になりました。まして、北朝鮮の被爆者につては情報がなく、全体の真相究明は今後の大きな課題です。

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