2014年 原水爆禁止 国民平和大行進  
竹田昭彦日誌(#20)・5月25日(日)
〈 被爆者から 強いメッセージを頂く 〉
被爆者の実相を話す小川武美さん(中央)=静岡市駿河区常磐公園
久保山愛吉さんの墓前にて(左から)アーサーさん、筆者=焼津市・弘徳寺
アンパンマンのワッペンを首に掛けてもらう通し行進者=焼津市役所
 静岡市駿河区の行進と、焼津市の行進と役場訪問です。
 天気は昨日同様、晴れたり曇ったりです。
 8時30分、駿河区常磐公園で出発式が開かれ、今日の行進がスタートしました。
 出発式で挨拶した、静岡市被爆者の会副会長の小川武美さんの話を、胸が引き締まる思いで聞きました。一部を紹介します。 
 私は、長崎で2歳の時に被爆しました。
 私の家内も長崎の被爆者です。
 姉が45歳の若さで2人の幼児を残して胃がんで亡くなりました。
 私の家内の母親も原爆病院に入退院しながら亡くなりました。甲状腺がんで苦しんでいました。
 家内本人もいまだに甲状腺の薬を飲んでいます。
 69年たった今でも原爆症で苦しんでいる人がたくさんいます。
 私自身も、小学3年生の時原爆症と見られる関節炎でいまだに右ひじが曲がったままで毎日の痛みに耐えた生活を送っています。
 私のもう一人の姉の夫は、原爆によるがんの苦しみに耐えきれず自殺しています。姉の嫁ぎ先は、長崎の黒い雨が降った西山地域です。いまだに畑の放射線濃度が他の平均地帯の5倍という高さです。
 皆さん、いわゆる安全神話なるものはまったくはじめから存在しなかたのです。放射能にかかわるあらゆることが安全などということは、私の経験では決してありません。
 皆さん原発推進者の話など信用してはいけません。
 詳しいお話を伺うと、内部被曝の恐ろしさを強調されました。長い年月がたって、がんなど発症することが多いからです。
 福島原発事故の放射能内部被曝を、たいへん心配していました。
 時間とともに、隠されてしまうからです。
 小川さんは、普段は見せないと言われながら、腕をまくり、右手肘を出しました。被爆当時は、傷口にウジがわいたそうです。
 強いメッセージを頂き、広島まで歩く意志をかたく誓いました。
 午後12時20分、焼津市の弘徳寺本堂で学習会がありました。
 弘徳院の墓地には、第5福竜丸の無線通信技師だった久保山愛吉さんが眠っています。
 学習会では、米国によるビキニ環礁の水爆実験後に盛り上がった日本国民の核兵器運動の概略が話され、今年の3・1ビキニデーの行進や集会には2千人を超える参加者があり、近年の最高だったと報告されました。
 そして、当初、署名を集める力になったのは主婦など女性だったこと、第1回日本母親大会が1955年6月開かれたことなど知りました。
 思い出したのは、英国で、米国の原爆搭載ミサイル基地だった「グリーナムコモン」を撤去させた女性パワーのことです。
  参照 http://takeda-a.net/08-3-23.html 
 午後2時10分、焼津市役所を訪問し、市長からのメッセージを代理の方から披露され、市長と議長からペナントを託されました。
 ペナントは静岡県独自につくったもので、広島市や長崎市に届けます。
 市役所では、親子集団によるアンパンマンの「戦争はイヤ」の躍りがありました。
 躍りが終わると、子どもたちから、通し行進者たちにアンパンマンのワッペンを首に掛けてもらいました。
 午後5時10分、焼津市にある自衛隊の静浜基地前を行進したあと、終了式でした。
 静浜基地は、かって、米軍航空母艦の艦載機のタッチアンドゴー(離発着訓練)に使おうとした基地です。反対運動で阻止しました。
 タッチアンドゴーは、現在、神奈川県の厚木基地を使用しています。
 神奈川県在住の私は、基地撤去運動に連帯を表明しました。
 今日、静浜基地で航空ショウがあったそうですが、行進したときには終わっており、門前の「歓迎静浜基地航空際」の吊り文字が目立つだけでした。
 今日の行進は、参加者が駿河区、焼津市とも約90人(休憩時の接待係等を含む報告)で、歩いた距離は13.1�劼任后�
 沿道募金は、56,184円を頂きました。
             
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