ベトナムに保育園建設

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戦後70年 平和と友好の懸け橋
ベトナムに 保育園を建設

ベトナムのクアンガイ市ティンアンドン町に建設した「ティンアンドン保育園」地図
「ティンアンドン保育園」の園舎
=2015/12/19、クアンガイ市ティンアンドン町
保育園建設代表の中元輝夫さん(右)から開園のカギをフンティラン園長へ渡される
=2015/12/19クアンガイ市ティンアンドン町
保育園の職員たちと日本からの訪問団が記念撮影(後列右から4人目)筆者
=2015/12/19
クアンガイ市ティンアンドン町
16世紀末に日本人が建造したと伝えられる「日本橋」=2015/12/20、クアンナム州ホイアン市
 2015年12月、ベトナムを訪問しました。
 目的は、日本人の募金でベトナム中南部のクアンガイ省クアンガイ市ティアンドン町に建設した「ティンアンドン保育園」の開所式参加です。
 建設を進めた代表者は、岡山市の中元輝夫さん(78歳)で、私が所属する平和遺族会の会員です。
 ベトナムに保育園建設を思いたったのは、中元さんの父の戦死場所がはっきりしなかったのが動機です。
 中元さんの父の戦死公報には、「昭和19年12月22日比島方面ニテ戦闘ニ於イテ戦死ス」とだけ書かれ、同20年8月31日に通知されました。40年過ぎてから、「比島方面」(フィリピン)の戦死場所で慰霊をしたいと調べると、「実際はベトナムと分かり、思いもしない驚きだった」そうです。
 中元さんの父は36歳で招集され、船舶砲兵として徴用タンカー「音羽山丸」に乗船し、シンガポールで航空用ガソリンを満載して日本へ向かう途中、ベトナムのクアンガイ市バタンガイ岬沖の南シナ海80㌔地点で、米軍の魚雷を受け沈没・戦死したのです。
 その真実は、死亡公報が届いた2か月以上前に、正確な船舶砲兵隊第二連隊第十二中隊の戦死確認書(20年6月6日作成)ではっきりしていたのです。
 中元さんは、日本やベトナムの人たちの支援を得てベトナムを2度訪問して「戦死確認書」通りの位置が確認され、ベトナム海軍やクアンガイ市長などの援助により、船上から慰霊をすることができました。その海中には、音羽山丸と船隊を組んだ「御室山丸」「ありた丸」も相次いで沈没し、その位置も確認されました。
 詳細は中元輝夫著「海に墓標を」文芸社出版。
 日本政府は、戦死の場所と日時を正確に分かっていた上で、偽った「死亡公報」を通知したのです。
 正確な戦死年月日や場所を意図的に偽り曖昧化したのは、相手国に軍事力弱体化を知られたり、日本国民の戦意高揚の低下を恐れる「軍事機密」だったからです。
 私の父も、除籍謄本の記載は「昭和拾九年七月弐拾五日時不詳北支那方面ニ於テ戦死」でした。
 その後、昭和29年10月18日附で、戦死日を7月25日から23日に、戦死場所を「北支那方面」から「中国湖北省蒲圻県趙李橋」(現赤壁市)に訂正されました。
 しかし、実際の戦死日は25日でも23日でもなく、7月18日です。それは、父の従兄弟が父の近くの部隊におり、父の兵舎が空爆されたことを知り、訪ねて父の戦死を確認していたからです。母は国を信用せず、位牌にも墓石にも命日を昭和19年7月18日と書きました。
 昨年の12月、国会で強行成立された「秘密保護法」は、その本質を受け継ぐ「都合の悪いことは隠す」危険な法律だと、よく分かる証明です。
 保育園の開所式で挨拶した中元さんは「子ともたちが健やかに育ち、日本とベトナム友好の懸け橋にしたい」と話し、建設に至る日本とベトナムの方々の支援に感謝しました。フンティラン園長(55歳)は「保育園を守り、すくすく育てます」と話しました。
 開所したティンアンドン保育園(1階建112㎡)は、バタンガイ岬の東側海岸線から5㌔ほどの位置で、ティアンドン町(人口6152人)の既設ティアンドン保育園と並んで建てられました。町で唯一の保育園で、現在134人在園していますが、今後200人になるそうです。入園は3歳から5歳児です。現在、先生(保育士)が14人おりました。
 募金の建設費は、建設会社などのボランティア的な厚意で余力が出て、園庭の整備や教材の充実にもあてられました。
 日本とベトナムは、1600年前後の朱印船時代に交易が盛んで、クアンガイ市より北のダナン港に通じるホイアンのトゥボン川河口地域に日本人1000人ほど
が住み、日本人街や中国人街が形成されていました。今回ホイアンを訪問し、16世紀末に日本人が建造したと伝えられる屋根付きの「日本橋(来遠橋)」を見学しました。石の橋脚がしっかりしており、今も木造部を修理し、使われていました。当時の町並みは、世界遺産に登録(1999年)され、外国人の観光客で賑わっていました。
 1940年代になると、日本は日独伊3国同盟を結び、日本軍がベトナムに進駐しました。フランスがドイツに降伏したスキを突き、日本がフランスにかわってベトナムを支配・統治するようになりました。そして、日本がベトナム国民から米や食料を強制的に調達し、ジュート(黄麻)や綿花への転作を強制しました。1944年には凶作とも重なり、200万人のベトナム人が餓死したと言われます。
 そのような歴史もふまえ、日本とベトナムの永遠の平和を願う「友好の懸け橋」として保育園が建設されました。

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