相良人形

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朝鮮通信使の人形
相良人形制作元訪問 米沢市

相良人形制作元と七代目作の朝鮮通信使のラッパ隊人形=2019/04/19、米沢市下花沢
相良人形の「猫に蛸」を作る七代目相良(隆)夫人=2019/4/19、米沢市下花沢
相良人形の犬が昭和57(1982年)の年賀お年玉切手シートに採用される
米沢牛ラーメン=2019/4/19、米沢駅前
 2019年4月19日、朝鮮通信使の人形を作る山形県米沢市の相良人形制作元を訪問しました。
 訪問しようと思ったのは、2016年に山口県を平和行進したとき、下関市で「朝鮮通信使上陸港之地」見学や、上関町で「朝鮮通信使をユネスコ遺産へ」の幟旗を見たことが動機です。
 参照 16-7-21.html
 参照 16-7-30.html
 その後、2017年と翌18年に、韓国釜山市の「朝鮮通信使歴史館」を見学し、朝鮮通信使の通らなかった山形県米沢市や青森県弘前市などで、通信使の人形を作っていることを知った驚きです。
 参照 takeda-a.net/a-korea17-03-25
     takeda-a.net/a-gotisokan17-07-03
     takeda-a.net/a-korea18-10-07
     takeda-a.net/a-korea18-10-14
 このたび、米沢で他の要件ができたことから、早めに出かけ、制作元に問い合わせなしの訪問でしたが、お母さん(七代目の相良隆氏の夫人)がおられ、快く迎えて頂きました。
 訪問の経緯を話しますと、奥から朝鮮通信使の人形を探し出されました。
 話しがすすみますと、相良人形の制作を見せて下さるとのこと。思ってもいなかった喜びです。
 その上、茶の間でお茶を頂きました。
 人形作りは、江戸時代の米沢藩主上杉鷹山公の時代(1761~1822)に、親衛隊を務めていた相良清左衛門氏が、藩財政立て直しの一翼として陶器制作を習得し、藩内の陶器需要を満たしことから、さらなる発想として生まれました。
 清左衛門氏は、若年より文武両道はもとより諸芸に通じ、特に彫刻が得意だったそうです。その特技を土人形作りに応用し、素朴さの中に優美と物語りある作風を確立しました。
 代々伝承されましたが、六代目の昭和18年に日本政府の戦争まっしぐらで、廃業やむなきに至りました。その後、七代目の相良隆氏が昭和42年に再興し、現在の八代目隆馬氏に引き継いでいます。
 お母さんから、戦後の苦労話など伺っていますと、七代目が私の学んだ高校(米沢工高)の先輩と分かりました。そして、八代目も同校卒と知りました。
 話しがはずみ、初代の清左衛門氏は、朝鮮通信使の行列(第11回目1764年)を、江戸で見物した可能性を知りました。参勤交代のときは、清左衛門氏が藩主の親衛隊で上杉藩江戸屋敷へ行っていたことを、お母さんが伝え聞いていると話されたからです。
 もし、見物するチャンスがなかったとしても、江戸の絵解きなどで、見ていたことに間違いないでしょう。
 その感動を人形に表現し、米沢の人たちに伝えたのでしょうと、お母さんと私の意見が一致しました。
 工房では、昨今「猫に蛸」の注文が殺到し、応えきれないそうです。全て手作りなので、大量生産が無理なようです。
 「猫に蛸」は、招き猫の上に蛸(多幸)が乗り、多幸を招く意味合いで、若い人に人気だそうです。
 思っても見なかった展開で、たいへんお世話になり、ありがとうございます。
 しばらくぶりの米沢で、夕食に「米沢牛ラーメン」をたべました。高校時代に、松川(最上川)河原で食べた「芋煮会」の米沢牛の味が蘇り、至福な米沢でした。

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