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アウシュヴィッツ収容所跡見学
ユダヤ人が貨車で運ばれ ガス室へ
 
第2強制収容所(ビルケナウ)入口と鉄道引込線
=2015/3/7
 
 
所内の荷下し場、林の奥にガス室などがあった
=2015/3/7
 
 
荷下ろし場に保存された窓無しの貨車
=2015/3/7
 
 2015年3月にポーランドを訪問し、第2次大戦でドイツがユダヤ人を主に、大量虐殺したアウシュヴィッツ強制収容所跡を見学しました。
 「アイシュビッツ」は、ドイツ語です。ポーランド語名は、「オシフィエンチム」です。
 オシフィエンチム市は、ポーランド南部の古都クラクフ市の東側に位置します。
 アウシュヴィッツ強制収容所は1940年5月に開所し、年次ふやして3か所になっています。第1と第2が世界遺産に登録され、「アイシュビッツ・ビルケナウ」(ドイツ語)と呼ばれています。その第1と第2を見ました。
 強烈な印象は、42年に開所した第2強制収容所です。
 ビルケナウの収容所内に鉄道の引込線が完成したのは44年5月でした。その後、ドイツの勢力下だったギリシャ、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、ハンガリー、ポーランド、ラトビア等々のゲットー(ユダヤ人隔離居住地)などから、貨車(窓無しの家畜運搬用)で連日・大人数を移送しました。そして、下車後の短時間でシャワー室(毒ガス室)に入れられ「大規模虐殺する凄まじさ」だったからです。
 貨車から降ろされると、持ち物をとられ、強制労働などに役立つ一部の人を除き、「シャワーを浴びさせる」と偽って断髪され、着物を脱がされました。そして、シャワー室に入ると、天井のシャワー口から毒ガスが吹き出し、20分ほどで虐殺したのです。
 その悲惨さは、想像を絶します。苦しみもがき、排せつ、体力の残っている人が倒れた人を踏んでもがく凄まじさ・・・ など、涙して一端を聞きました。
 シャワー室に入るまで、死を感づかれない偽装もありました。地下の脱衣室へ行く通り(チューブと呼ばれていた)の両端には木々があり、新しい小枝を毎日とってきて据え替えたのです。
 私はガイドさんに、貨車から降りたときに「電気を流した有刺鉄線の厳重な囲いを見て、その時に異変を感じたのでは・・・」と質問すると、それまでのゲットーも同じように囲われていたので、普通に見えたそうです。まして、ユダヤ人は顔や体型でドイツ人と似ており、差別するため胸に六角の星のマーク(ダビデの星)を付けさせられていた程でした。異変を感じて暴動化するのを、最も恐れていたのです。
 大量虐殺棟は、入り口、脱衣室、ガス室、遺体運搬エレベータ、焼却炉などの複合施設で4棟ありました。1棟毎のガス室は210㎡で約2000人が入れ、焼却炉は1昼夜で1440体を焼却する能力です。
 1日に、何千人も虐殺・焼却したのです。それらの施設は、解放直前に爆破し、証拠隠滅しました。残ったのは、引き込み線路、入り口の門塔、強制収容棟の一部でした。
 3つの強制収容所全体で虐殺された人は、ユダヤ人、捕虜、政治犯など150万人(ビルケナウの慰霊碑文)と言われます。正確な人数は分かりません。労役などに回された人の一部は、人体番号や顔写真など残っていたが、短時間で虐殺された子ども、女性、高齢者、障害者、身体の弱い人など、確かな記録がありません。ナチスの根本思想には、民族の優越性があり「人種的に純粋」な社会を築こうと、とくにユダヤ人を最大の敵とし、根絶(ホロコースト)しようとしたのです。
 今年は、アウシュヴィッツ強制収容所が解放(1945年1月27日)されて70年です。再び悲劇を繰り返さない決意を込めた式典や集会が各地で開かれました。ドイツのメルケル首相はベルリンの追悼式(1月26日)で「ナチスの残虐さを思い起こすことはドイツの恒常的な責任である」「ドイツは宗教や出身地、民族の区別なく、自由で安全に生きられる国でなければならない」と話しました。
 
 
 
 
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