竹田昭彦・日誌(#01)・3月19~20日)    

西本あつし墓参10周年・交流会
妙義基地反対闘争に学ぶ

西本あつしの墓に参る筆者
=2024/03/19、伊勢崎市国定・養寿寺
妙義山基地反対闘争の学習会
=2024/03/19、甘楽町・甘楽ふるさと館
妙義山基地反対闘争のシンボル高山
=2024/03/20、安中市・恩賀
妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑
=2024/03/20、
安中市・恩賀
 今年は墓参10周年です。
 1泊の旅を提案し、実現しました。墓参者は30人で、これまでの倍です。国定駅から養寿寺までの行進は、たいへん賑わいました。
 墓参後は甘楽町へ移動し、西本さんが尽力した妙義米軍基地反対闘争の学習会を開きました。
 妙義基地反対闘争は、米軍が朝鮮戦争(1950年(昭25年)~54年)で、朝鮮の山岳地形に苦戦したことから、それと似た群馬県の妙義山に、訓練基地を建設する問題(1953年)に対する反対運動です。
 当初は、県や各市町村議会、各首長、労働団体、市民団体、高校の生徒会など、全県的な反対運動に発展しました。しかし、政府の土地買収値段のつり上げ(地価の10倍)、土地収用法発動、山岳集落に無かった電灯や水道のインフラ整備の約束などの「飴」で、反対運動は条件を飲む闘争に追い込まれました。そして、土地は95%が売られ、各反対運動体が解散するなど、日米政府の強硬策に後退を余儀なくされました。
 だが、恩賀地区の有志は、山岳の高山を中心にした残り5%の土地を売らず、身体を張って闘いを貫きました。
 その結果、米国に基地建設を断念させ、勝利したのです(55年3月1日)。
 妙義基地問題の直前(52年)には、石川県内灘に、米軍の砲弾試射基地建設の問題がありました。
 これに、西本さんが参加した経緯もありました。
 この闘争は、建設を内灘村が認めてしまったが(53年9月)、「全国の基地反対闘争に大きな影響を与え、「草の根民主主義への出発点」と高く評価されています」と、内灘町のホームページに書いてあります。
 蛇足ですが、朝鮮戦争は日本の歴史に大きな変化をもたらしました。米国から持ってくる砲弾が間に合わず、日本の企業に生産させ、戦前の軍事企業を復活させました。簡略的に見てみますと、50年に警察予備隊、52年に保安隊、53年に自衛隊が発足しました。それと一体で、経団連が52年に防衛生産委員会を立ち上げ、53年に兵器生産協力会(日本兵器工業会)を発足させました。そして、特需で潤ったのです。岸田政権の軍事費超大増は、朝鮮戦争の休戦状態を終戦へ導かず、夢よ、もう一度でしょうか。
 西本さんは、内灘闘争もふまえて群馬県へ移住し(54年)、妙義基地反対運動支援に大きな役割を果たしました。墓参の翌日、妙義山を訪れて高山を背にした「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」を見学しました(写真下段)。そこに向かう途中には、支援者達が野宿した縄文時代の千駄木遺跡もあり、当時の様子が浮かびました。
 高山は(264m)勇壮な岩峰で、基地反対闘争のシンボルにぴったりです。なお、高山の雄姿は、上信越高速道の碓氷軽井沢ICから、正面に見ることができます。

 
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