御馳走一番館

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朝鮮通信使 おもてなし
御馳走一番館

御馳走一番館の玄関
=2017/07/03、呉市下蒲苅島
御馳走七五三の膳(御馳走一番館の収蔵・展示品の案内書より)=2017/07/03
 2017年7月3日、呉市の下蒲苅島(旧下蒲苅町)の三之瀬にある朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」を見学しました。
 御馳走一番とは、朝鮮通信使が通った道の宿泊所で、三之瀬の御馳走が一番豪華だったことから命名したそうです。
 通信使が泊まった各宿泊地では、当該藩をはじめに、近隣藩の総力で食事の接待や、警護、運行などを行いました。
 江戸時代の200余年で、朝鮮通信使の来日は12回ありました(内1回は対馬迄)。1回あたり、400~500人で、往来日数が5~8ヶ月でした。
 海路では、日本から数百隻の船が出て運航にあたりました。陸路の隊列も、日本人を含む総勢千人規模だったようです。
 通信使の招致は、現代のオリンピックを遙かに超える、幕府総動員の国際交流だったと思います。
 どの藩も、食材の調達や人員の動員など。財政的にも大変だったようですが、最高のおもてなしをしました。
 三使等(正使、副使、従事官、他)を接待した七五三膳は、1膳当たりの料理が七品、五品、三品を示す3膳ですが、三之瀬では七品が本膳と二膳、五品が三之膳、三品が4ツ目、5つ免の計5膳ありました。
 七五三膳は、実際には食べず、儀式用だったようです。食べるのは、三汁十五菜でした。それにしても、盛り沢山で、食べきれなかったと思います。
 なお、通信使の職名により、役割が下がると三汁十五菜の品数が少なくなります。
 また、展示品には、当時の民衆をとりこにした通信使の行列や船団を、人形やこけし、土鈴に姿を変え記録されました。通信使が通らなかった東北の青森や岩手などでも作られました。私が住んでいた山形県米沢市にも、相良人形(成島人形)があり、ビックリしました。住んでいたときは、全然知りませんでした。
 民衆が遠方から来て見学したことや、各藩の江戸屋敷や参勤交代の影響もあったようです。
 相良人形は、上杉鷹山が陶工を育てたことで、生まれた。
 現在、市民や自治体サイドなどで、朝鮮通信使をユネスコ記憶遺産にする活動がすすめられています。いま、朝鮮半島をめぐる軍事的緊張が高まるなか、武力に頼らない「誠信交隣」に立ち返る、よい活動だと再認識しました。
 参照 a-korea17-03-25
http://www.shimokamagari.jp/facility/gochiso.html

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