竹田昭彦・日誌(#07)・8月04日(金)    

広島平和公園に集結
寄せられた ペナントをアピール

皆さまから託されたペナントを広島平和記念公園でアピール
=2023/08/04、広島市・広島平和記念公園
府中町・原爆の碑から最後の行進がすすむ
=2023/08/04、府中町
くねった歩道橋を上り超え、最後の踏ん張りだ!
=2023/08/04、広島市
各コースの行進が広島平和記念公園に集結し、原爆死没者に黙祷を捧げる=2023/08/04、広島市・広島平和記念公園
原爆ドーム
=広島市・広島平和記念公園
国際会議で発言する韓国のスパークの代表者(左)
=2023/08/04、広島市・中区
コリア協会・広島による夕食会(左から3人目がイ・ジュンナムさん)=2023/08/04、広島市
 8月4日、行進最後の日です。
 府中町の行進、広島市・東区役所訪問、広島市の行進です。
 天気は、相変わらずの炎天でした。
 8時30分、府中町「原爆の碑」前で出発式を開き、15分後に行進へ移りました。当初の参加者は50人ほどでしたが、途中から増え、広島平和記念公園へ着いた時は80人以上でした。
 11時20分、同公園に、東京→広島、富山→広島、広島市内の網の目(宇品を出発)の全コースが到着し、直ちに終結集会が開かれ、原爆ドームに向かって黙祷しました。
 ここへ無事到着することが、通し行進者の何よりの喜びです。
 北海道からの山口逸郎さん、東京からの村上厚子さん、富山からの山内金久さん、それぞれが思い出と決意を熱く話しました。ご苦労さまでした。
 終結集会は15分で終わり、参加者総勢280人と発表されました。
 話しかわって、昨日到着した府中町「慰霊の碑」前の集会で、地本の実行委員会の二見伸吾さん(府中町議)の挨拶にあった「原爆ドームの保存の切っ掛けになった少女の話し」を書きます。
 その少女は、楮山ヒロ子さんです。爆心地1.2㎞(広島市平塚町)で被爆し(1歳7か月)、府中町へ引っ越して府中小学校、府中中学校を卒業しました。
 原爆の傷も負わず元気だったヒロ子さんは、高校2年生の時(1960年3月、16歳)、突然体調不良を訴え、急性白血病と診断され、入院6日後に急逝しました。その前年の1959年8月6日、ヒロ子さんは日記に「あのいたいたしい産業奨れい館(原爆ドーム)だけがいつまでもおそる原爆を世にうったえてくれるだろうか」と書いていました。
 産業奨励館は、その上空東側約600mで原爆が爆発したとみられ、破壊を1部持ちこたえた原子爆弾爆撃の証拠です。
 被害後、補修もなく放置され、撤去、保存の論議が、撤去の方向に傾いていました。
 ヒロ子さんの日記が知られ渡り、こどもたちを初めとする市民運動が盛り上がり、広島市議会を動かし、1966年に保存が決議され、保存されるようになりました。1996年には、保存運動の広がるにより、世界遺産に登録されました。
 私は、ヒロ子さんの日記を初めて知りました。二見町議に詳しい話しを伺いますと、「あまり知られていないので普及したい」と話され、資料を頂きました。
 折り鶴を掲げる場所の「原爆の子の像」も、こどもたちの運動でした。
 今日の行進は、3区間を参加者50~80余人で5㎞です。
 終結集会後、同広場で「ペナント・ピースアピール行動」をしました。
 自治体の首長、議長、団体、個人等々から寄せられ、託されたペナントを綱に結び下げ、持つ人たちが地面から立ちあがり、左右に振りながらのアピールです。ペナントの素材に、折り鶴の再生紙を利用した一昨年から始めたアイデアで、記名、アピール度が大きくアップしたと思います。
 午後2時、国際会議にイ・ジュンナムさんと私が参加しました。
 私は、国際会議に参加するのは初めてです。
 会議の冒頭、海外からの参加者が1人ひとり紹介され、イ・ジュンナムさんが起立してお辞儀しました。イ・ジュンナムさんは、世界大会参加のしおりの「海外代表のみなさん」に載っています。
 コロナ禍で、4年ぶりの対面国際会議です(オンライン参加あり)。熱気を感じました。
 夜は、コリア協会・広島による夕食会に、イ・ジュンナムさんと私が参加しました。日本語、ハングル語、英語での歓談、国際交流が深まりました。

 
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