竹田昭彦・日誌(#1)・4月15日(土)    
神奈川県原水協
結成60周年のつどい

60年のつどいで “原爆を許すまじ” と “青い空は” を合唱=2017/4/15
60周年記念誌=2017/4/15
 4月15日、原水爆禁止神奈川県協議会(神奈川県原水協)の結成60周年のつどいが、横浜で開かれました。
 原水爆禁止運動が日本全国へ大きく広がったのは、1954年3月1日に米国が、太平洋中部のビキニ環礁で行った、水爆実験が契機でした。
 水爆の威力は、広島へ落とされた原爆の1000倍といわれます。その近くで操漁していた、マグロ漁船の放射能被害は甚大でした。
 全国で被災したマグロ漁船は856隻で、県下の三浦港(現三浦市)は159隻にも及びました。
 各地で、魚屋から魚が消えるパニックになりました。
 翌1955年8月に、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、各地に原水協がつくられました。
 神奈川県原水協は、1957年4月5日に結成されました。結成には、三浦の全市を上げての禁止運動をはじめに、各地の原水協結成が、大きな役割を果たしました。
 最近明らかになったことに、全国民の盛り上がった原水爆禁止運動を抑えるため、日本政府が米国との被害補償交渉で、「大規模な戦犯の解放と仮出所」を取引材料にした件です(1954年12月27日重光外務大臣と会談したアリソン駐日大使の記録の米国解禁文書)。
 船員への補償は、第5福竜丸の船員だけに見舞金程度で、打ち切られてしまいした。
 この件については、現在、高知地裁に起こした元漁船員たちの国家賠償請求訴訟などが進めば、全貌が明らかになると思います。
 60周年のつどいでは、結成60周年記念誌「輝く60年 明日へつなぐ」が紹介されました(写真下)
 誌には、県下の運動の歴史と、内外の動きの資料で詳しく記載してあります。
 *ご注文 045-231-6284(神奈川県原水協)
 日本国民の原水爆禁止の盛り上がった運動は、1960年をピークに、米日政府の押さえ込みと、内外からの分裂策動で一直線には進みませんでした。
 私が初めて世界大会へ参加したのは、1964年の第10回大会でした。当時は、部分的核実験停止条約の賛否をめぐって、方針に取り入れるか否かで紛糾していました。そこでは、「不一致点は脇に置いて、一致点での統一する」方針で乗り切り、感銘したことを覚えています。
 この3月、日本国民の粘り強い運動は、世界を動かし、国連を動かし、禁止条約締結交渉開始が、初めて国連で始まりました。

 
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