竹田昭彦日誌(#89)8月05日(日)
〈 浪江町長が 原発に頼らない決意を話す 〉
 世界大会・広島の2日目、分科会10「シンポジウム 核兵器・原発 私たちの未来 -原発からの撤退、自然エネルギーを考える-」へ参加です。
 9時30分、会場へ、開会時間丁度に着くと、座る椅子がない超満員でした。会場最後部の立ち席へ行っても入る余地がありませんでした。急遽、前部へ折りたたみ椅子が配置されました。原発問題は、皆さんの関心が非常に高いと思いました。
 分科会の終了時に発表された参加者は、420人でした。
分科会で話す福島県浪江町の馬場有町長
 午後1時30分、午後の部がはじまり、福島県浪江町の馬場有町長さんが見えられ、特別発言がありました。
 冒頭に、「原発事故から514日目になります」、「長くて、つらい、悔しい、人間の生活ではない生活でした」と言われました。地震発生時から今日まで、つらく、くやしかった経過を、リアルに話されました。
 人口2万1千余人の町で、人的被害は死者148人、行方不明34人、震災関連死139人です。町民も、役場の職員も、食うや食わずの生活と、家族の離散を強いられたのです。いまだ、復興のめどが立たないのです。
 町長さんは、原発にたよらず、自然エネルギーへの転換を、浪江町が率先して進めて行く決意を述べ、皆さんと連帯して進めることを表明されました。
 「原発ゼロの決断と、エネルギー転換策を、町が率先して実行することが世界を変えて行く」、との話しがよく分かりました。
 昨年、「北海道→東京コース」の通し行進したとき、福島県二本松市に浪江町の仮役場のあることを知りました。
 そのとき、二本松市は放射線量値が15_シーベルト(年間値)と高く、平和行進ができませんでした。
 そこへ、浪江町役場と、町民5千人が避難していたのです。
 国が適切な放射線量の情報を示さないで、避難指示を出しため、町役場と町民が放射線量の高い所へ避難してしまったのです。
 くやしくて、くやしくて、仕方なかったと思います。涙して聞きました。 
保育園児に託された折り鶴を平和公園に捧げる
 分科会後、兵庫県尼崎市の行進のとき、行進へ参加した保育園児たちから託された折り鶴を、平和公園の「原爆の子の像」の所に捧げました。その写真を、園児たちへ送ろうと思っています。