竹田昭彦日誌(#61)7月08日(日)
〈 通行人から募金 尼崎中央商店街〉
 宝塚市、伊丹市、尼崎市の行進です。
 9時10分、宝塚市役所で出発集会を開き、今日の行進が始まりました。
 集会に先立ち、リレー横断幕「東京→広島」が見当たらないので、宣伝カーの中など色いろ探したがダメでした。
 出発間際、網の目コース用に持って行ったことが判明し、ホットしました。常に目配りしてないと、こまることになります。 
行進が宝塚市翌所を出発して武庫川の宝塚新大橋を渡って伊丹市へ向かう
 宝塚市役所を行進が出発すると、脇を流れる武庫川の宝塚新大橋を渡り、伊丹市へ向かいました。天気は薄曇りで、川風に桃太郎旗がなびき、勇壮な気分でした。
 12時15分、伊丹市役所の出発集会では、伊丹市原爆被爆者の会の小泉雄次会長さんから、連帯と激励の挨拶をいただきました。その原稿を、お願いして貰いましたので紹介します。

伊丹市原爆被爆者の会を代表して挨拶申し上げます。
本日は本当にご苦労さんでございます。
今、伊丹市には133人の被爆者がいまが、平均年齢78となり、病気がちで、この「平和行進」に参加するのが難しいです。お許し下さい。
さて!私は一週間か10日前の新聞に大戦時のアメリカ合衆国大統領トルーマンの孫が、被爆地広島か長崎の原水禁世界大会に「被爆者に罵倒されようとも行く」という小さな記事を見て驚きました。
この事は私の若い時に父が語っていた事を思い出しました。
終戦後、いち早くアメリカのジャーナリスト「ハーシー」氏が「ヒロシマ」という本を出し、
その中に出てくる広島日本赤十字病院の医師で40人中ただ一人助かった「佐々木」と言う医師が、占領下の日本人として大胆に、「原爆の投下を命じた人間は絞首刑にすべきだ」と言い放ったそうです。
これを読んだ当時の父は心から共鳴したと言っていました。
父は広島日本赤十字病院のすぐ南の広島女子高等師範学校で
生徒達が死んでいくなか「先生!助けたください!お母さん!おかあさん!」の声を聞き、地獄を表現した言葉「阿鼻叫喚」その中に居たのです。
しかし、今、父も、被爆者もトルーマンのお孫さんを罵倒する事はないと思います。
お孫さんは被爆の惨状を良く見て、よく聞いて、感じて帰り、オバマ大統領に伝えて欲しいものです。
そうして世界平和のために役立ててほしいです。
ふたたびヒバクシャをつくるな! 憲法九条を世界平和に生かそう!

  尼崎中央商店街の行進で通行者から募金を頂く  
 午後5時過ぎ、尼崎市の中央商店街を行進すると、ほとんどの店が開いており、買い物客や歩行者が多くありました。よいPRになったと思います。
 先頭を歩いていると、買い物客風のご婦人が、手提げ袋からサイフを取り出し、募金をされました。募金隊が活動していない、突然のことです。平和行進だと分かると、募金される方がおられ、半世紀続けてきたありがたさです。
 今日は、5区間を区間により100〜120人で延べ20q歩きました。